業種別潜在リスクの基礎知識
2020.09.09
その日、外回り営業から戻った谷田は、退社する木下と会社のエントランスでばったり出会った。コロナ環境下で「リモート営業」を余儀なくされていた営業担当も、最近は検温、マスク、ソーシャル・ディスタンスを条件に顧客先へ訪問することが増えてきた。もちろん、ルート営業は控えた上での外回りである。
「谷田さんじゃないですか、お疲れ様です。暑い中、マスクもしていると大変ですよね…アイスコーヒーをおごりますから、少し喫茶店で涼みませんか?」
事務仕事のための会社に戻ってきた谷田だったが、先輩社員の誘いとアイスコーヒーの誘惑に勝てず、「少しだけになりますけど」と言いながら、木下と一緒に歩き始めた。
木下がお気に入りのその喫茶店は、審査課の青山ともたびたび訪れている店である。緊急事態宣言を受けて一時的に休業していたが、7月から営業を再開した。店内のテーブル間隔が以前に比べて広くとられているものの、従前通り昭和の雰囲気が充満している。調度品は古めかしいが、スタンスは時代に対応しているのだ。アイスコーヒーと言いながら、早めの夕飯と決め込んだ木下がエビピラフを注文するので、小腹の空いた谷田もついついビーフカリーを注文してしまった。こういうところは、マイペースな木下である。
「木下さん。ちょうど良かったです。聞きたいことがありました」と、メニューを置いた谷田が口を開いた。
「以前、粉飾パターンの王道である売掛金や棚卸資産の水増しの手口のお話、もう少し詳しく教えてもらっていいですか。今はコロナの影響で大変な会社も多いですが、粉飾のリスクも無視できないと思うんです。最近、客先でそういう話を耳にしたりもして、ますます気になってきました」
「コロナの前にそんなお話をしましたね。では粉飾談義の続きをやりますか。粉飾談義なんて、何だか悪巧みをしているようですけど、谷田さんがお客さんに粉飾指南をしたりしちゃダメですよ」
「勘弁してください、木下さん。この谷田、誓って悪用いたしません」と、芝居がかった感じで谷田が答えた。
「では、たびたび話題に上がる循環取引から始めましょうか。循環取引はご存じでしたよね?」
「はい。特定の商品について、数社の間で売買を繰り返す手口ですよね?決算書では売上が増えて、資金を循環させて資金繰りをつけるだけじゃなくて、売上が増えて業績悪化の隠蔽にもなるのですよね」
「売掛金が増えて売上債権回転期間が長期化します。棚卸資産もその実態が不良在庫であれば増加していきます。それらを固定資産など、その他の資産科目に振り替えて隠蔽してしまう手口もあります」
「それは悪質!発見が難しくなりそうですね・・・」
「そうですね。二重帳簿から複数の決算書を作るなど、手の込んだケースになってくると、見分けるのが難しくなってきます。そういう場合はやはり、過年度からの推移を追って不自然な部分に気づくしかありません」
店内は涼しいが、外回りでまとった熱が残っているのか、谷田は汗を拭きながら話を聞いている。なのに、さらに汗をかきそうなビーフカレーを注文してしまった谷田は、まだ若い。
「粉飾は結局のところ、売上の水増しか、コストの過少計上による利益捻出のいずれかが目的なので、そこは同じと考えて良いと思います。ただ、実際の手口としては製造業にありがち、といったものがあります」
「製造業は原価計算が複雑ですから、やはり製造原価の中身に注意した方が良さそうですね」
「鋭いですね!製造業では、材料や部品、半製品といった仕掛品、製品など、各製造工程で様々な棚卸資産が発生します。これらの工程で架空の棚卸資産を計上して原価を過少計上する手口が想定されます」
ビーフカリーを口に入れながら話を聞いている谷田は案の定、額から大粒の汗を流している。
「そういうことなら、小売業も商品在庫がたくさんありますから、同じように棚卸資産に注意すべきですね」
「そうです。ビジネスモデルと照らし合わせて決算書の内容をチェックすることが重要です。食品スーパーなら、日持ちしない在庫が主ですので多額の棚卸資産は計上されないはずです。店舗数は変わらないのに不自然に在庫が増えている、といったことに気がつけるかもポイントになりますね」
「建設業も同じように棚卸資産や売掛金に注意すれば良いのでしょうか?」
「もちろん、そこは押さえておいて損はないでしょう。建設業では、工事の現場が長期に及ぶことがありますよね。そうなってくると、見積もりによって数値を決めていく要素が増えることになりますので、売上の先行計上などが潜在的なリスクとして考えられます。異なる現場への経費の付け替えといった操作もありえます」
「なるほど。でも現場ごとに案件規模が大きく違う会社では、決算書から読み解くのが難しそうですね」
「そうですね。そういう場合は過年度との比較でも実態把握が難しくなってきます」
「逆に考えると、在庫がないサービス業などは粉飾決算をしづらい、ということになりますか?」
ビーフカリーを完食した谷田だが、思いのほか辛かったようだ。おしぼりで何度も額の汗をぬぐっている。
「サービス業といっても、いろんな業態があるので一口に言えるものではありませんが・・・長期にわたってサービスを提供する場合、本来前受金にあたるものを売上として先行計上してしまうケースが考えられます」
「確かにそれも売上水増しの手口ですね」と、谷田は罪状を見抜いた刑事のような顔をした。
「これらはあくまで一例で、同じ業態だから手口が同じとも限りません。多くの企業は真面目に決算書を作っているのですから、突き詰めれば、そういうことに手を出す会社なのか、という見極めが一番肝心なのです」
「それが難しいんですよね・・・何か雰囲気が良くない会社だな、と営業訪問で感じることはありますが」
「営業担当として、その嗅覚を研ぎ澄ませてください。厳密な統計はありませんけど、最近の事例を見ていると、トップに権限が集中していて内部監査が期待できないとか、ノルマがきつくて社員に過度な業績達成へのプレッシャーがかかっている、といった会社は、粉飾へつながる土壌があるように思います」
「そうですね!私も嗅覚を磨きつつ、八木田課長のプレッシャーに負けて不正に手を染めないようにします!ところで、木下さんの食べていたエビピラフの匂いがとても良かったので、追加注文していいですか?」
「そっちの嗅覚ですか!谷田さん・・・事務仕事があるから会社に戻ってきたんじゃなかったですか?」
「いやいや、明日の朝、気合いでやれば大丈夫です!」
「谷田さんはプレッシャーには勝てそうですが、誘惑には負けっ放しじゃないですか?」
「たしかに!」と言って頭を掻く谷田を見て木下は吹き出しそうになり、慌ててマスクに手をやったのだった。
売上の水増し、コストの過少計上に至る手口
新型コロナウイルス関連支援情報
https://www.tdb.co.jp/corp/corp09_covidrelatedinfo.html
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