コロナ禍と企業審査 ~ベテラン・水田の引退~
2021.04.12
ウッドワーク社の審査課のベテラン、水田が退社すると青山が聞いたのは、つい先週のことだった。この3月で水田が満65歳となり、定年延長の特別社員としての期間が満了することは知っていたが、社内ではその後も契約社員として会社に残る社員が多い。水田が職場を去るような話は聞いたことがなく、青山は水田が会社に残るものだと思っていた。審査課長の中谷も水田の退社を聞いたのはつい先月のことだという。
緊急事態宣言解除後も在宅勤務体制が続く中、その後に水田と直接顔を合わせることもなく今日、水田が参加する最後の課会を迎えたのだった。課会といっても半分はリモート会議であり、今日は出社している課長の中谷と水田、青山だけが会議室に集まり、秋葉と千葉は在宅勤務でPC画面の中にいる。緊急事態宣言が解除されてもウッドワーク社では各部に出社率が定められており、全員出社というわけにはいかない。
各自が業務進捗の報告を終えた後、調査会社の横田がリモートで画面に加わった。課長の中谷が声をかけたらしい。コロナ前なら電話で予定を確認して会議室を予約していたが、便利な世の中になったものだ。
「さて、今日は水田さんが参加する最後の課会になりました。私もまさかこの3月にそんな日を迎えるとは思ってなかったんだけど・・・そのあたりは水田さんから話をしてください」と課長の中谷が切り出すと、水田がコホンとひとつ咳払いをして、話を始めた。
「それでは・・・まあ、みなさんには急な話になって申し訳ない気がするんじゃが、4月から田舎の九州に帰ることにしたんじゃ。この歳になって親はとっくに亡くなっておるが、弟がコロナの影響で仕事場が変わって実家を離れることになったので、自分が実家を引き継ぐことになったというわけじゃ」
「水田さんの生活にも、思わぬコロナの影響があったということね」と課長の中谷が言葉を加えた。
「十も歳が違う弟が観光地の近くで飲食店をしておったんだが、コロナの影響で客が減って、そういうときに市街地の知り合いからこちらでやらないかと声をかけられたらしいのじゃ。その玉突きでわしが田舎に帰ることになったんじゃから、まあコロナの影響じゃな」と、水田も笑っている。
「ということで、水田さんの気持ちが萎えたといったことであれば、私がムリしてねじを巻いて、まだしばらく審査を続けていただくようお願いしたのだけど、ご家庭の事情なので私も引き留められませんでした」と中谷がメンバーの方を向いて、力及ばず申し訳ない、という風に頭を下げた。
「まあ、老兵はいずれ去る日が来るもんじゃから、それが少しばかり早くなったというくらいのもんじゃろう。世の中も企業も変わってきて、これからは経験則が邪魔になることもある。秋葉君や青山君が新しい与信判断のモデルを作ってくれるじゃろうから、わしは安心して引退じゃ」
「いや、計数面の与信基準は整えてきましたけど、取引先に寄り添った与信判断とか、緊急時の対処といった部分では水田さんに教わったことが多かったですし、心細いです」と画面の中の秋葉が少し寂しそうだ。
「そうですね。長年の取引先が窮地に陥ったときに、営業担当に同行して取引条件を約束させて取引を継続したことがありましたね。そのあたりの目利きはやはり年輪を感じました」と青山も続けた。
「金言なんてものは残せんが、企業の目利きは人の目利きに通じると思うことはあるわな。最近は年寄りを騙す投資詐欺とかあるが、ああいうものには絶対騙されない自信がある。企業を見るには財務の見方とか独特のコツはあるが、企業といっても最後は経営者、人じゃからな」
「そうですね、水田さんに教わって、ホームページを見るだけでも見栄っ張りな会社とか誠実な会社とか、私もある程度見分けができるようになりました。ネット通販で騙されずに済んでいるのは水田さんのおかげです」と言ったのは、画面の中の千葉である。水田を職場のお父さんのように慕ってきた千葉は、心なしか目が少し潤んでいるように見える。
「水田さん、横田です。私も長くお付き合いさせていただいて、いろいろ教わりました。調査で回っているとコロナで苦労されている会社もありますが、私は水田さんの言葉を思い出して経営者を励ましていますよ」
「あら、水田さん、そんな良いことを言ってたっけ?」と課長の中谷が笑うと、水田も何のことだっけ?という顔をしていたが、すぐに思い出したようだ。
「ああ、激励というか、願いみたいなもんじゃな。テレビで、政治が何もしてくれないとぼやいてる経営者を見るとな、まあ気持ちは分かる。コロナみたいなことが起きるとは誰も思ってなかったわけじゃから、それは大変じゃ。でもな、そういう状況でも新しいことを始めて活路を見出している経営者もたくさんおる。どんな環境でもビジネスを探してチャレンジするのが経営者であってほしい。誰かが何かをしてくれるのを待っていたって、一個人ならそれも生き方じゃが、経営者は企業とそこで働く人を背負っておるのじゃから、自分で前に進んでほしい。もしそれで上手くいかなくても、やり尽くした結果なら自分も社員も諦めがつくというもんじゃろう」
「そうなんですよね。いざ苦境に身を置くとなかなかそう思えないかもしれませんが、それでも頑張ってほしいと思って、私も水田さんの言葉を思い出して経営者と向き合うようにしています」
「そういう意味ではいつまでも前向きな65歳よね、水田さんは!」と課長の中谷がまた笑った。
「それだけがわしの取り柄じゃな。今は倒産も減ってきて、人がやるのは効率が悪いと企業審査の仲間が減っているような話も聞くが、企業同士の付き合いも人と人の付き合いと一緒じゃ。企業と経営者をちゃんと目で見て見極めんことには、将来の大切なお客さまを失ったり、まだ立ち上がれる企業をみすみす見捨ててしまったりするもんじゃ。そういう会社にならんように中谷君、しっかり頑張ってくれよ!」
「水田さんも田舎に帰って仕事をしないで急に寝込んだりしないように、頑張ってくださいね」
「そうそう、そのためにひとつお願いがあるんじゃ。会社の近所の『銀次郎せんべい』の塩せんべいを月に1回送ってくれんか。後払いじゃが大丈夫、貸倒の心配はせんでよい!」
いつもの飲み屋での締めのようにみんなで明るく笑って、ベテラン審査人・水田を見送ったのだった。