決算書の基礎教育 ~文殊の知恵~
2017.06.20
少しさかのぼる今年の3月初旬、ウッドワーク社の人事課のシニア・マネジャーである長谷美は、今年の新入社員研修のプログラム表を見ながら、考えていた。長谷美(ハセビ)というのは日本に百数名しかいない珍しい名字で、営業部在籍時はお客に「美大の略称みたいだな」などと、すぐに名前を覚えてもらえた。長らく営業の前線にいた長谷美は40歳になった5年前に人事部に異動し、新入社員教育を統括している。
ウッドワーク社の入社時研修では、決算書の基礎から、建材商社に必要な建設業会計を少しだけ発展的に盛り込んだ内容にしているが、なかなか研修生に興味を持ってもらえない。先日会った営業部長にも、「最初の研修で決算書のことをもう少し教えておいてくれないか」との注文をもらっていた。
そんな長谷美が昼休み、ハンバーガーショップでポテトをつまんでいると、近くのテーブルで同じ会社の審査部と経理部の若手二人が、さも楽しそうに決算書談義をしているのを目撃した。長谷美はその日の午後、さっそく2人に連絡をとり、人事部のミーティングルームに呼び出した。
「急に悪かったね。今年の新入社員の入社時研修のことで、少し相談に乗ってほしいんだ」
青山は長谷美と社内研修で何度も会っている。また、青山にとっては営業部の大先輩なので、営業部関係の宴席でも何度か同席している。かなりの年上だが飄々とフランクな長谷美に、青山は親しみを感じている。
「長谷美さんのご相談なので、まさか異動か?と冷や冷やしましたよ」と言うと、木下も続いた。
「長谷美さん、お久しぶりです。採用面接でお世話になりました。『経理部でしばらく頑張ってくれ』とおっしゃってくださったので、増員の相談かと思いましたよ」と、こちらは入社時に世話になったらしい。
それから、長谷美は昨年の研修で使った決算書関連の講座の資料を2人に渡し、概略を説明した。
「中身は、より分かりやすいように毎年ブラッシュアップは重ねているが、“つかみ“をもうひと捻りしたくてな。これは昼食どきに決算書の話をする奇人おふたりにアイデアを出してもらうしかない、ということで」
恰幅のある長谷美はその場で「わっはっは」と笑った。そういう長谷美は新入社員を含め社内研修の講師をいくつも行い、評判も上々である。その長谷美の相談だから、2人にとってはなかなかハードルが高い。
「僕は審査課に異動して、知識をつけないと仕事ができないという状況になってから、勉強を始めましたからね・・・会計事務所出身の木下さんと仲良くなったのでスムーズに学習できていますが、そういうことがないと勉強を始めたり、学習を続けたりということにはなかなかならないですよね」
「僕もまさかここで決算書談義を楽しめる相手が出来るとは思っていませんでした。前職の経験でも、決算書の話を始めると興味を持ってくれる人より、敬遠する人のほうが多いので、なかなか難しいテーマですね」
「そうなんだよ。わかりはじめると、結構面白いと思うんだが、学校で習った人は稀だし、スキルアップのために苦労して簿記検定をとる、というイメージが先行しちゃうんだなあ」
「全然興味ありませんでしたよ。学生時代にパソコンの進化を目の当たりにして、プログラマーになろうと思っていたんです。でも、練習のために組んだプログラムがバグだらけで、向いていないと思って、何か身につけなければという焦りから簿記検定を目指すことになったんですよ」
「冷静な木下君も焦るんだな、わっはっは。じゃあ、簿記の勉強から決算書に興味を持つようになったの?」
「まあ、そんなところはありますが、簿記の勉強で面白さを見出せるのは数理的なセンスがある層に限られるような気がします。ズバリ決算書の面白さを伝えるなら、やはり実例を見せるのが近道ではないでしょうか」
「実例って、本物の決算書のことかな?ぎょっとしちゃいそうだけど、青山君はどう思う?」
「皆が良く知っている上場企業で、商流をイメージしやすいものなら良いかもしれませんね。資料は有価証券報告書から簡単に収集できますし。木下さんは前職で後輩の教育をどうしていたんですか?」
「会計事務所にも簿記・会計をこれから勉強するという新人が入ってくるので、その教育はしていました。実際の会社に連れて行って、社長の話を一緒に聞いてもらったり、工場や機械を見せてもらった上でその会社の決算書を作ったり、そういうOJTができたから、未経験者に面白さを伝えやすかったんですが・・・」
「なるほど。たしかにうちでは集合教育だし、木下君のようなOJTはできないからな・・・」
「そういえば、大学時代に様々な業種の決算書を調べる課題がありましたね。どんな法人でもいいということで、自分で題材から探したんですが、僕は誰も選びそうにない宇宙開発を行っている法人をチョイスしました」
「どんな勘定科目が出てくるのか、面白そうですね」と、青山はすでに木下の話に興味津々の顔である。
「そう、単純に面白そうだと思ったのは正解でした。貸借対照表の固定資産に『人工衛星』勘定が計上されていたり、注記情報にも実験や計画の説明が少し出てきたりと、決算書の中にロマンを感じましたね」
「ロマン!決算書にはロマンがある。うん、つかみとしては良いかもしれないな」と長谷美がうなずいた。
「少々特殊な業態の法人やうちと同業の建材商社の決算書の概要を並べて、クイズ形式にするのも面白いかもしれませんね」と、青山が思いつきを話すと、長谷美の目がさらに輝いた。
「青山君のアイデアもアリだね。確かに実例を使った方が、イメージがわきやすいし実戦的かもしれないな」
「講義の時間にもよりますが、同業他社と比べてみてビジネスモデルや儲け方の違いを発見したり、経年比較で浮き沈みやリーマン・ショックをどう乗り切ったのかを見たり・・・そういう応用的なところにつなげられると、興味を持ってくれそうですね。レベルがちょっと高くなってしまうかもしれませんが」と木下が加えた。
「なるほど。どんどんアイデアが出てくるなぁ。いっそ、研修に2人を招いてコント仕立てにするのはどうだ?」
長谷美が上機嫌に、そして冗談気味に言ったところで、突然青山がわれに帰ったような顔をした。
「あ!僕も審査課主催の研修で決算書講座をやるんでした!アイデアをとっておけばよかった!」