取引信用保険の話 ~旧友との再会~
2017.07.18
木下との登山の翌週の水曜日、青山は大学時代の友人・伊藤と下町の洋風居酒屋「トリトン」でお酒を飲んでいた。大学時代に同じゼミで仲の良かったふたりだが、伊藤は大学卒業後、外資系商社の福岡支社勤務となり、しばらく会うことがなかった。そんな中、先月SNSで伊藤が青山を見つけ、連絡をとってきたので、出張で東京に来た伊藤と久しぶりに会うことになったのだった。
「いやあ、青山があまり変わってなくて安心したよ。社会人っぽくはなったけどな」
「伊藤も外資系サラリーマンって感じはするが、顔はあまり変わってないよな」
ひとしきり再会の挨拶と、共通の知人の消息についての情報交換を楽しみ、話題は仕事のことになった。
「青山の会社は建材会社だったよな。まだ営業をやっているのか?」
「いや、今は審査だ。営業の与信審査だよ。売っていい先かどうかをチェックする、という・・・」
「なんだ、てっきり銀行の審査部が思い浮かんで、貸金でもしているのかと・・・」
「銀行小説の読み過ぎじゃないか?銀行の審査部は重要融資案件の審査をしているんだろうけど、うちは審査部じゃなくて審査課。もっと小さい所帯でやってるよ」
「青山が営業担当者に、そこには売っちゃいけないよ、なんて言うわけ?」
「場合によってはね。後で焦げ付いちゃうと利益が消し飛んでしまうから。営業やっているとわかるよな」
「でも、うちの会社ってそういうセクションがないわけじゃないが、あまり関わりがないぞ」
「与信申請を上げて、それが戻ってくる、なんてことはないわけ?」
「いや、一応申請はするけど、戻ってくることはほとんどないね。リスクマネジメント部が担当しているが、取りっぱぐれに対して保険をかけるやつがあるだろう、あれをかけてるんだな、あれ・・・トリセツじゃなくて・・・」
「トリセツ?・・・トリシンか」
「あ、そうそう、取引信用保険だ。俺が入社した頃は審査部があったけど、親会社のリスクマネジメント部がグループ全体の管理を取引信用保険メインでやるようになった。だからその部署の人数もだいぶ減ったよ」
「そうか、伊藤のところは外資だからな。海外取引も多いだろうし・・・でも、そんなんだと、話さえまとまればどこにも売っちゃう感じなのか?」と、青山はトリモツをつつきながら、伊藤に聞いた。
「工業製品の部品かあ・・・難しそうだね」
「そう。だから細かい説明はしないけど、さほど単価が高くない商材を継続的に買ってもらう取引になるからね。小口のお客さんも多いけど、長い取引ができるような先を選んでいるつもりだよ」
「そうだね。スポットでドーンと売り切って、ということじゃない、ということだね。小口も多いと管理も大変だから、保険をかけたほうが合理的・・・ということになるのかな」
「まあ、そんなところじゃないかな。青山の会社もいずれ取引信用保険に移行したりして、青山の仕事がなくなっちゃう・・・なんて心配はないの?」と、伊藤はトリテンをうまそうに口に入れながら聞いた。
伊藤のさらっとした質問に答えようとして、青山は一瞬、「審査課解散」という文字とともに課長の中谷が膝折れて泣くひとコマを想像したが、すぐにそれを打ち消した。
「いや、うちの場合は建材だから、スポットのまとまった取引も多いし、基本は国内取引だからね。ファクタリングとかそういうリスクヘッジ・サービスを部分的に使うことはあるだろうが、しばらくは大丈夫だよ。逆に取引信用保険メインになると、営業担当があまりリスクを目利きしなくなったりしないの?」
「俺はできる営業マンだから、ちゃんと相手を見定めているさ」
そうだ、伊藤は大学時代から自信家だったな。でも、イヤミがなくてさらっとしているし、人を攻撃することがないので、自信家の発言を聞いてもいやな気持ちにならない。こういう性格も営業にプラスに働いているんだろうな・・・と、青山は納得した。
「ただ、個人のセンスに依存する部分は大きくなったような気がするね。後輩にはそのあたり、無頓着過ぎるのもいるな。どうせ保険でカバーされるんだから、ノルマ第一で売っちゃって大丈夫でしょ、みたいなね。まあ、それも合理的な割り切りなのかもしれないが、青山自身はどう思っているんだ?」
「会社の業態とかポリシーにもよるんだと思うけど、俺は今の審査の仕事にやりがいを感じているよ。危ない会社を見極めるのはとても奥が深いし、逆にこの先伸びる会社も見極めよう、と上司からも常々言われているので、営業担当と話をしながら取引の妥当性や可能性を見極めていく仕事は、なかなか面白いよ」
「確かに、会社は生き物だから、見極めるといっても奥が深いよな。うんうん、青山には向いている仕事かもしれないね。大学時代も、友達のカップルがあれは長く続きそうだ、とか、あれはあまり続かないんじゃないか、とか言っていたもんな・・・」
「・・・そういえば、そんなこともしていたっけ」と、青山は思わぬ方向に話が進んで少々恥ずかしくなった。
「そういう青山は、卒業する頃に一緒だった彼女とはどうなったんだよ。とても仲良かったけど・・・」
「その話を始めたら、今晩は帰れないぞ!」と、青山は半分残った酎ハイを一気に飲み干したのだった。
与信リスクと保険
類似のサービスは2000年頃から普及し、サービスも深化しています。取引信用保険もファクタリングも、信用度が著しく低下した取引先は対象にできない、あるいは外れてしまうことがありますが、多数の取引先を抱える会社や与信管理にコストがかかりすぎる会社がこうしたサービスを主とした与信管理体制へと移行するケースもあります。業種や業態によっての適否もあり、どちらが良いとは言えませんが、保険という形でリスクヘッジを図ることで、営業現場が取引リスクに鈍感になる、ということも良く言われます。「保険をかけてあるから、大けがをしても大丈夫!」あるいは「不摂生をして病気になっても大丈夫!」とも言えますが、保険は損失を金銭的に補填するものであり、大けがや病気といったリスクを回避できるものではありません。日々の与信管理行動とは、「大けがをしないための行動管理」であり、「不摂生をせず病気を抑制する健康管理」のようなものと言えるかもしれません。