財務の略称表記 ~八木田の世界~
2018.05.08
その日、経理課の木下が月末締めの作業を終えて一息ついていると、営業部のベテラン・八木田が久しぶりに訪ねてきた。バイタリティ溢れる行動と「横文字」の多用で、社内では指折りの有名人である。趣味で英会話教室にも通っているという八木田だが、なぜかその発音は聞き取りやすいカタカナ英語である。
「ハロー、ミスター木下!いつも新人の石崎を含めフォローしてくれて、サンキューベリーマッチです!」
「八木田さん、相変わらずですね。この上半期も営業成績がトップだったらしいじゃないですか」
「いやぁ~、たまたまエクセレントなロイヤルカスタマーに恵まれただけです。ラッキーでした」
「ラッキーであの成績は出せませんよ。新人の石崎君は、とても真似できないと言っていましたよ」
「いやいや、今は自分のパフォーマンスだけじゃなくて、後輩メンバーの育成がモア・インポータント・ミッションですからね。木下さんには財務周りをカバーしてもらって、チームワークで行きましょう、ハッハッハ」
「人材育成ですね。営業は人間相手の仕事なので、育成は大事ですよね。私たちの職場では育成もさることながら、最近はAIとかRPAの活用が話題になりますよ」
「RPA!確か、ロボティック・プロセス・オートメーションでしたな。営業でカスタマーと会話していると、ちょくちょくそういう略称が出てきて、前はそういうのが得意だったのが、最近は歳のせいかだんだん覚えられなくなってきて、困っていますよ。会計についてもそういう略称は多いですな」
「BSやPLは当然ながらご存じですよね?」
「BSはバランスシートで貸借対照表、PLはプロフィット&ロス・ステートメントで損益計算書、それくらいは頭に入っていますよ。あと、CFもわかるか。キャッシュフロー、そのまんまですから、ノープローブレムですな!」
「あとは、株主資本変動計算書はSSと略されたりしますが、あまり口にしませんね。私は“株変”と呼んでいます。製造原価明細はコストレポート、略してCRと呼ばれることがあります。ちなみに、決算書をまとめた財務諸表という言葉にも一般的な略称があるのは、ご存じですか?」
「財務はファイナンシャル、諸表は・・・PLがステートメントだから、ステートメント!FS、で合っていますか?」
「正解です。あとは試算表をトライアル・バランスの略であるTBと呼ぶことがありますが、私は日常会話で使った記憶がありません。簿記の勉強をしているときに、授業で耳にした記憶がある程度です」
「ROAは総資本利益率、ROEは自己資本利益率ですね。ROAのAはアセットで資産、ROEのEはエクイティで資本をそれぞれ意味しますから、そうやって思い出すと良いですね。Rはリターン、利益率です」
「とくにROEの方をよくチェックしているという社長がいましたよ。そういうインベスターたちがめやすにする指標は、他にもたくさんありますね」
「一株あたりの指標では、EPSとBPSが代表格ですよ」
「それは何でしたかな。そのあたりになると、かなりあやふやです」
そう言いながら、八木田は小さなメモ帳にメモを始めている。
「それぞれ、EPSは一株あたりの当期純利益、BPSは一株あたりの純資産額です。EPSのEは利益を意味する“Earnings”のEです。BPSのBは“Book-value”ですので“簿価”と訳すことができますが、ここでは純資産を指します。各々のPSは“Per Share”で、“一株あたり”を意味します。なんだか英語教室みたいですね・・・」
「いやいや、改めて聞くのは恥ずかしいので、ここで確認させてもらってありがたいですよ」
そう言う八木田の顔は、ふだん会計の話を聞くときよりも明らかにキラキラしている。
「他に株式投資でわりと頻繁に出てくる指標は、PERとPBRです。それぞれのPは“Price”、Rは“Ratio”だそうです。PERのEは“Earnings”、PBRのBは“Book-value”で、さっきと同じですね」
「そのふたつの指標は知っていますよ。PBRは株価純資産倍率、PERは株価収益率ですよね。インベストに熱心なカスタマーからずいぶん前に教わりました」
「それぞれ、株価の水準が割安なのかといった目安に使われる指標ですね」と、木下が補足をしていると、八木田の携帯が鳴った。画面を見るなり、八木田は木下に片手を上げて合図をし、後ろに下がった。その目に、“Wait a minute”と書いてある。
「エクスキューズ・ミー!カスタマーからのコールです。ミスター・キノシタ、今日のショート・レクチャーもグッジョブでした。シー・ユー!」
携帯を片手に足早に経理課を後にする八木田の背中を、ただでさえ横文字が多いのをさらに助長させてしまったのでは・・・と、木下はやや複雑な思いで見送っていた。