ROIの話~コスパの女~
2019.10.10
会社でのストレスの大部分は業務内容や業務量ではなく人間関係だ、とよく言われる。ユニバーサル貿易七瀬はその日、職場近くのカフェでそのストレスをまき散らしていた。
「ねぇ、ほのか、聞いてよ。今日もあの新人ちゃんに作業をお願いしたら、ソレッテワタシノヤルコトデスカ?って言われたわー。そりゃあ、育成プログラムとかあるんだろうけど、少しぐらい融通利かせてほしいよね」
中学からの幼馴染で今も同じ会社・同じ部署にいる六条に向かって、七瀬はぼやいている。
「なぎさ、そういうこと言わないの。今は育成プログラムをこなすことが彼女たちのお仕事。新人は早く仕事の習慣をつけるのが一番って、課長もこの前おっしゃっていたでしょ」
「さすが、メンターは言うこと違うわ。私が新人の頃なんて、表計算ソフトで合計した答えを電卓で再計算する作業を延々とやらされたわよ。あの時の先輩って今、フランス支店だっけ・・・次会ったら覚悟しとけえ」
そう言って七瀬は拳をつくると、同期の六条はクスクスと笑った。
「さすがに今はそんな人、いないはずよ。まあ、確かにあの子は新人の中でも“コスパの女”と呼ばれているぐらい変わった子なの。でも、個性だと思ってみれば、とっても良い子よ。少し融通が利かないのは難点だけど」
「コスパの女って・・・。コストパフォーマンスに命かけちゃってるわけ?仕事って、そんなんじゃないと思うんだけどなあ。よし決めた!明日締めあげるわよ。ほのかも手伝って!」
「なぎさ、それパワハラよ」
中学時代から変わらない話の展開を切り上げて、二人は帰路についた。さすがに付き合いが長い2人は、これからさらに話を続けても話がまとまらない、ということだけはわかっているのだ。
「おはようございます、七瀬さん。メンターは六条さんなので、ご配慮いただかなくても結構です」
「なっ!そういう問題じゃないでしょ」と、想定しない矢を身に受けた七瀬は、不覚にも少したじろいた。
「課長からも、メンターの指示に従うよう仰せつかっています。他の方からご指示をいただくこともありますが、メンターを介していただいた方が、諸先輩方のお時間を奪うことなく、私も効果的に業務を習得できます」
三枝の矢継ぎ早な言葉に、七瀬のダメージはさらに増えた。(彼女の言うことにも一理あるが・・・やっぱりここは譲れん!)と、七瀬が渾身の反撃に入りかけたところで、六条が割って入った。
「メンターがそばにいたら問題ないんですよね、三枝さん。今回の指導は私から七瀬さんへお願いしました。それはそうと、どうして三枝さんはそこまで費用対効果ばかりを考えるのか、教えてくれませんか?」
六条は優しく微笑みつつも毅然とした口調で三枝に言うと、七瀬と共にリフレッシュルームへ連れて行った。
「私たちの会社では各プロジェクトにROIが設定されていると、入社時研修で学びました。ROIは、投資に対して利益がどれだけ出るかを測る指標ですよね。働き方改革など効率的な業務推進が求められている中、効率的に業務に当たるよう、研修の講師がおっしゃっていたのを覚えています」
リフレッシュルームの席に着くなり、三枝は早口で話し出した。六条は対面に座り、目をそらさずに話を聞いている。七瀬は自分を落ち着けるべく、ウォーターサーバーから無料の緑茶を紙コップに注ぎ、席に着いた。
「節約することやコスパを考えることは個人的にも好きですし、今の業務内で最大効果を出したいのです」
六条は一度目を閉じた後、穏やかに話し出した。
「ROIはReturn On Investmentの略だから、投資についての指標ですが、コストパフォーマンスは費用を扱うものなので、厳密に言うと三枝さんの考えていることは違います。しかし、だいたい同じように扱うニュースや文献もあるので、そこは今回考慮外としましょう。その上で、あなたの言っていることは正しい。私も今の業務内で最大効果を出してほしいです。でも、せっかくROIを覚えて自分の業務にも応用しているのなら、その特性をもう少し理解して日常業務を行ってくれると嬉しいのですが」
「ROIの特性ですか?投資効率が高いほうが良い、ということ以外に何があるのでしょうか?」
目を丸くした三枝の表情を見て、七瀬が空の紙コップを握りつぶして言った。
「あなたねぇ、仕事がすべて合理的に片付くなんて思ったら、大間違いよ!」
六条が(まあまあ・・・)と書いた顔を向けると、七瀬は(ありえなーい)と苦しそうに口パクしている。
「三枝さん、ROIは支払ったコストに対してどれだけ利益が返ってきたかを直接計算するものだから、広告費など効果がすぐ現れるものに対しては、とても有効です。しかし企業が行う投資はもっと長期的な目線で考えるべきものも存在します。このような長期的な投資効果についてROIは反映することが苦手です。そうした特性をよく理解したうえで活用していかなければなりません」
「つまり、私がやってきたことは目先のことばかり、ということでしょうか?」と、三枝は不安そうな顔をした。
「なんであなたはそんなに極端なのよ。今やるべきことをしっかりするのは当然のことよ。でも仕事は1日で片付くことなんてめったになくて、数か月とか数年とか見越してやらなきゃいけないこともあるの。第一、コスパだけで仕事を選んでたら、そういう面白い仕事に出会えないじゃない」
七瀬が不機嫌そうに窓の外を見ながら言うと、三枝が初めて少し腑に落ちた顔をした。
「ふふ、そういえばなぎさは三枝さんとは真逆ね。なんでもかんでも首突っ込んで引っ掻き回した挙げ句、いつの間にかその輪に入っていっちゃうから、今や社内では知名度抜群の企業戦士ね」
「企業戦士言うなー。仕方ないじゃん、投資効果とかわかんないもん。私は私にできることをやっているだけ」
朝礼が迫り、話が尻切れのまま3人は自席に戻ったが、朝礼が終わると三枝が七瀬のところにやってきた。
「七瀬先輩、私に仕事を教えてください。私、もっといろいろできるようになりたいです」
(いまどきのコスパ女は切り替えも早いな!)・・・違う意味で「目先のことばかり」やってきたと言えなくもない先輩・七瀬は厳しい顔で「しょうがないわね!」と言いながら、それを見ていた六条の方を向いてニヤリとした。