決算書の作成と会計ソフト ~木下の思い出話~
2020.03.05
冬の寒さが少し緩み始めたその日の夜、審査課の青山と経理課の木下はチェーン店の大衆居酒屋にいた。出会って以来、「決算書」に関して師弟の契りを結んだかのように、ところ構わず決算書談義(レクチャーと受講)を繰り広げてきた2人だったが、受講者である青山も実務を通して身につけてきた知識が多く、木下にレクチャーを乞う機会は確実に減ってきている。そういう青山の成長をうれしく思いつつ、半面、一抹の寂しさも感じていた木下が、珍しく自分から青山を誘ったのだった。「ちょっとだけ飲みませんか?」と、控えめに・・・
二人の席に並んでいる料理はお通しの枝豆にだし巻き卵、山盛りのポテトフライ、唐揚げ・・・と、大衆居酒屋の定番が並んでいる。もちろん、飲み物はジョッキに入った生ビールだ。
「そういえば、木下さんから誘っていただくのは珍しいですね。何か重要な報告でもあるんですか?」
「いやいや。このところ忙しくて一緒に飲む機会が減っていましたし、そろそろ軽く一杯行きたいなと、思っていたんですよ。青山さんこそ大丈夫でしたか?何か重要な予定でもあったのでは・・・」
「万一予定があったとしても、木下さんの誘いが最優先です!」と言った青山の顔はもう赤い。
「おや、酔っていますね?うれしいことを言ってくれるじゃないですか。青山さんは以前からお酒が好きそうですが、私は就職したばかりの頃、全くお酒が飲めなかったんですよ。仕事上、中小企業の社長が相手なので、誘いを極力断らずにやっていたら、少しずつ飲めるようになっていました」
「最初は会計アレルギーだった僕が木下さんの話を聞くうちにわかるようになってきた、というのと同じじゃないですか。僕の場合は木下さんに洗脳された、と言ってもよいかもしれませんが」
「私は教祖ではありませんよ。でも、財務知識はどこに行っても使えるポータブルな知識ですから、身につけておいて損はないでしょう。まあ、青山さんもそろそろ聞くことがなくなってきたかもしれませんが」
「木下さんのおかげでだいぶ理解が進みましたよ」
「青山さんの場合、実務で多くの決算書をケーススタディとして見ていますからね。そろそろ、決算書を実際に見てきた企業の数では、青山さんに負けたかもしれません」
「いやいや、僕はできあがった決算書は見ていますが、簿記の勉強をしてきたわけでもありませんし。例えれば、僕はこうして出てきた唐揚げを味わうことはできますけど、木下さんのように唐揚げを材料から調理して仕上げるなんてことは経験もないし、できない・・・そんな感じですかね」
「青山さんの仕事はできあがった料理をしっかり見極めることですから、それで十分じゃないですか」
「いやいや、やはり素材や調理方法まで理解して、極めることができるんじゃないかと、ときどき思います。決算書も、貸借対照表や損益計算書が出来上がるまでに、いろんな帳票類を作るんですよね?」
「そうです。いろんな資料を入手したり、作成したりして、決算書ができあがるのです。では、今日は決算書ができあがるまでをお話ししましょうか。私の思い出話みたいになりますが・・・」
こうして、経緯はともかく、いつもの談義が始まった。
「そうですが、私がいた会計事務所からすると、クライアント側で日常的な仕訳入力をしてくれているケースもあれば、材料となる資料を預かってこちらで記帳を代行するケースもありました。材料となるのは、経費支払いなどを記録した現金出納帳や、得意先・仕入先それぞれの請求書、法人口座の預金通帳のコピーといった原始的な資料です。料理で言えば、できあいの出汁か、出汁から作るか・・・みたいな違いですね」
「その材料には、いろんな伝票があるんでしょうね」
「今は伝票自体が減っていますが、老舗の中小企業なんかだと現金の出入りを記載した入金伝票・出金伝票があったり、それ以外の取引を記載した振替伝票があったりしましたね」
ふたりはそれぞれ生ビールをジョッキで3杯飲み干し、熱燗に移行した。昔話には熱燗がよく合うようだ。
「仕訳の一覧をまとめた仕訳表を作るのですが、仕訳は地味ながら間違えられない丁寧な調理工程です。今は会計ソフトが進歩して、過去の仕訳や典型的なパターンをサジェストしてくれますけどね」
酒の肴に注文したなめろうを口に運びながら、木下が気持ちよさそうに語っている。
「会計ソフトは料理で言えば、多機能ミキサーとか、調理レンジとかいったものですね」
「私が事務所に入った頃にはすでに会計ソフトがありましたが、昭和の頃は手書きで仕訳表を作っていたようです。その内容を勘定科目ごとに転記した総勘定元帳も手作業で・・・大変な仕事だったと思いますよ。今は会計ソフトで試算表から集計された各科目の元帳にアクセスして、仕訳のミスがないかチェックできます」
「そうやって会計ソフトがやってしまうと、料理人はやることがなくなるんじゃないですか?」
「いやいや、そこからは人の仕事ですよ。よく直近月の残高試算表を出力して、クライアントを訪問していました。訪問回数はクライアントによって毎月だったり3カ月に1回だったり、希望に合わせて対応していました」
「あんまり期間が空くと、やらなきゃいけない作業が溜まっちゃうんじゃないですか?」
「そうなんです。会社の規模が小さかったり、毎年の変動が小さかったりするクライアントでは希に年1回なんてこともありましたが、月次の推移を確認して投資計画や資金繰りを考えていくのが基本ですからね」
「持って行くのは試算表だけですか?」
「月次の試算表と一緒に資金繰り表、いわゆる直接法で作ったキャッシュフロー計算書のような資料もよく作成しましたね。中小企業は税務署への提出を義務づけられていませんが、融資を受けるときやリスケジュールの折衝時の材料としては、現場で重要性の高い帳票です」
「やはりキャッシュフローは重要ですよね!」と、かなり酔いが回った青山がテーブルを軽く叩いている。
「前職の先輩の昔話は面白かったですよ。大口クライアントの決算書作成で手分けして集計して、残高がピッタリ合ったら大騒ぎだったとか、提出する税務申告書を綺麗に手書きで作成する清書班がいたとか・・・」
「うちの課の水田さんが若い頃に経理部にいたと聞きましたが、そんな世界にいたんだろうなあ」
「そうだ、水田さんは面白いお話しがたくさんありそうですね。今度お呼びして、昔話をしてもらいましょう」
決算書ができるまでを料理に例えていたはずだが、酔いとともに筋が破綻し、その日の談義は終わった。いつもは論理の破綻を許さない木下だが、その日はただただ満足そうな顔をしていたのだった。